震災15年

話せば長くなってしまいます

東日本大震災が起きてから15年。その時のことを話し始めるとどうしても長くなってしまいます。当時のブログに書いてあったかな?って思い検索してみましたが、短文でサラッと書いてあるだけ。実際被災した方々のことを考えれば瑣末な話ですが、たまたまちょっとした決断が成功したので、ことあるごとに話をしています。

当日私は社員と共に東京の東陽町で研修を受けておりました。鉄骨造6階建てのビルの6階で、たまたま休憩時間であった時、今まで感じたことのない揺れが襲ってきました。研修会場のテーブルは皆倒れ、揺れている間は壁のボードの継ぎ目から粉が飛んでいました。当地の震度は5強だった模様。

瞬間鉄道は全て運休。新幹線も止まっているということで、近くのホテルでの宿泊を勧められ、徒歩で向かいました。フロントでチェックインのため、列に並んで待っていると、ちょいちょい余震が起きます。ロビーの床の石張りの目地からその度に粉が散っている様子を見ると、ここで泊まっても落ちつかないなって思えてきます。順番が来た時、この近所にレンタカー屋さんありませんか?と尋ねている自分がおりました。歩いて5分とのこと。たまたま社員プラス地元の同業者で合計3人いましたので、交代で運転していけるだろうなという計算でした。

レンタカー屋さんはそれほど混んでいませんでした。幸運だったのは、都内であったにも関わらず、スタッドレスタイヤの車が1台あったことでした。その日は日帰りの研修であったため、それほど現金の持ち合わせがなく、カードで支払いをしようとしましたが、電話回線が不通のため現金でと言われ、3人が所持金を出し合い、なんとか支払うことができました。受付完了した頃から、レンタカー屋さんも俄かに混雑してきます。夕方5時、説明を受け勢いよく走り出したのは良かったのですが、ものの200メートルほど走ったところで先の全く見えない渋滞にハマってしまったのでした。

ノロノロ動きながら、コンビニが見えるとトイレと買い物に交代で走ります。コンビニも2軒目でほぼ食品は無くなりました。電話が通じないので、はぐれてしまったら終わりなのですが、出てきても大体車ははるか後ろでした。多分家では心配しているでしょうが、電話が通じないのでどうしようもありません。そこで、当時始めたばかりのTwitterに自分は無事だとのメッセージを残しました。これを娘が読んでくれて、心配をかけずに済んだのは良かったのかと思います。

走り始めた時には関越道も閉鎖になっていたため、どのようなルートを取るのか決めていなかったのですが、とりあえず練馬インター方面に向けて走っていたところ、夜半に開通。練馬インターに着いたのはほぼ2時。既に9時間経過しております。

高速に乗ってからは碓氷で落石とのことで、一旦下ろされ、峠道を進みましたが、それ以外はスムーズに走れました。最初のサービスエリアのテレビで見た津波の映像の衝撃が忘れられません。しかし、それよりも途中で入ってきた長野県北部震度6強というラジオの音声。やっとの思いで戻ってきたのに、自宅はどうなってるんだろうと不安になり、車中はまさにどんよりとした雰囲気になりました。

最終的に家に着いたのが朝7時半。実に13時間半の長旅でした。家族は皆1階のリビングで固まって寝ていました。その時点で新幹線は未だ運休中。勝った!と思いました。

ダラダラと書きましたが、私にとっての東日本大震災はこんな状況でありました。人口密度が高すぎる都会は、建物の倒壊等が無くとも非常に脆弱なものだなと感じた経験です。今後も日本列島は様々な災害に見舞われることと思いますが、しっかりと備えるとともに、柔軟な思考で非常事態に対応できるよう頭を柔らかくしておきたいと思った次第です。

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この記事を書いた人

長野県飯綱町在住。株式会社ツチクラ住建代表取締役。株式会社カンマッセいいづな代表取締役。小学生の頃、キレイに仕上がった霊仙寺湖芝広場で父親が言った「ここはこれからもっともっと良くなる」が忘れられず今に至る。ニッチでちょっと変わったことをしてみたいと思い続けて還暦を過ぎる。信州飯綱町に生息する経営者+αの日記『いったいお前は何屋なんだ?』で日常を発信中。

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